婚前道中膝栗毛

結婚前の男女がリアカーで歩いて日本縦断に挑戦する「ガチンコロマンスドキュメンタリー」笑いあり涙ありの物語。byヒデアキ&みのり

「わたしがえらんだから」

 
 
泊まらせていただいたおうちに、うめちゃんっていう5歳の女の子がいたんだ。
その子が教えてくれた、とっても大切なことの話。
 
 
 
 

 
 
 
 
夜一緒に歯磨きをしようって洗面所に行ったんだ。
うめちゃんが、私の歯磨き粉をみて一言、「それあまい?」
 
 

甘いと判断して、それを使いたがったうめちゃんに貸してあげた。
けれど口に入れて2、3はブラシを往復させるや、
「からい・・・」と言ってうがいを始めた。


 
 
 
 

からい、からいとうがいを繰り返すうめちゃんに私はひたすら謝った。
 
「ごめんね、甘いと思って貸したんだけれど、辛かったね」
「大丈夫・・?何か甘い飲み物持ってこようか?」
 
うろたえてしまった私を見て、うめちゃんが言ったんだ。

 
 
 

「ううん。こっちこそごめんね。
 『このはみがきこをつかおう』ってきめたのはうめだから、
みのりちゃんはわるくないんだよ。」
 
 
 
 



 
びっくりした。5歳の女の子が、自分の選択にこんなに責任を持ってるなんて。


二人で謝り合ったあとに、おあいこってことになり、
歯磨きを終えて、「おやすみ、またあしたね」って床についた。













選択するのは自分だ。その結果は自分のものだ。
でもどうしても、からかったり、辛かったりしたものだと、
誰かのせいにしがちだ。
大人だって、子どもだって。


 
それを、一言も言い訳やだれかのせいにせずに、
「わたしがきめたことだから」
と言い切った彼女には、頭が下がる思いだった。













この旅は、私が決めたことだ。
ヒデアキと同じ景色を見たい、それだけのシンプルな理由で。

日本のよさとか、原発とか、新しい文化だとか、
そんなのはぶっちゃけあと付けだ。









 
 
 
多分この話はもう少ししたら私の中でもっと大きく広がって、
今つかえてるものを覆うだろう。



でも自分の選択なら、
それが人から見てどんなくだらないものであっても、宝なんだ。
自分で作った作品は愛おしいように、その価値は自分にしかわからない。
 
 
 
 

だからせめて、その価値観や愛おしさを手放したくないと思った。
それを手放してしまったら、
今ある些細な生きている実感すらも消えてしまうと思う。

生きる意志みたいな、ろうそくのほのおみたいな。
揺らいでいても、ともっているもの。
 



小さくても、揺らいでいても、
そこに「在る」ということに、意義があるんだ。
文字通りの、存在意義が。