婚前道中膝栗毛

結婚前の男女がリアカーで歩いて日本縦断に挑戦する「ガチンコロマンスドキュメンタリー」笑いあり涙ありの物語。byヒデアキ&みのり

いのちは、死なない。水を見てみたら、いのちのあり方が見えた。


小雨の中を歩いていた。顔に薄く雨がかかり、通り過ぎようとしている橋の下で川が激しく流れ落ちていて、まるでひとつの生き物のようだった。今この顔に降り掛かる雨も、どんどんと流れていく濁流も、同じひとつの「水」なのだなぁと思ったとき、ふとひとつの疑問が浮かんだ。




水は、死なないのだろうか。


降った雨は地に注ぎ、川を流れ海に還り、蒸発して雲となりまた雨として注ぐ。それをずうっと繰り返している、そんなの誰でも知っている。
ということは、水は死なないのではないかと思ったのだ。水こそ不老不死なのではなかろうかと。





そこで想像してみる。
今降った雨と未来に降る雨は同一ではないし、海だって同じ水であったことは一度とないだろう。同じ空も存在しない。ということは、水そのものは変化するが(実際水が水蒸気になる時点で形としては別物になっている)、それを構成する分子だとか量子だとかその組み合わせやつながりが変わるだけで、その一番小さな粒自体は変わらないのかもしれない。



そうすると、私たちの死もまた同じことが言えるのだろう。「人」としては死ぬ。しかしそれらは分解されて地に還り、別のつながり方をして別の形になる。別のいのちとなる。
それを想像すると、いのちそのものはすべてつながっていて、ある意味1つの大きな粘度をこねくり回して色んな形をその瞬間瞬間で象ってはまた消える、それこそアートのようなものなのだろう。







そう思うとひとつ=すべてのいのちが今この瞬間全霊で表現する何かを、全身で感じたくて意識する世界がぐわっと広がった。この感覚が私は好きでたまらない。





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私は、いのちと私自身がのぞんだ、いのちである。










みのり





P.S.
今欲しいもの。

二胡ケースを肩掛けできる紐
・ごま油
・米子から鳥取までの9号線沿いで、泊めてもらえるお家
・お米



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